安部公房『砂の女』『友達』

9/8『砂の女』再読了。9/14『友達』読了。

安部公房の作品が同時期に2作上演されて、観劇後に原作を読んだのでどうしても舞台を思い浮かべながらの読み方になってしまったのだけれど、まずは『砂の女』。私が持っている新潮文庫の奥付をみたら昭和62年(1987年)刷の版で、当時の私はこの小説がこんなにもエロティックだと理解していただろうか、あるいはただ単にエロティックな話だと思っただけで登場人物が抱える深い孤独や闇には気付いていなかったのではないだろうか。どちらにしても浅い読み方しかしていなかったことは確かだと思う。KERAさん演出の舞台では官能的なシーンもどこか清潔感が漂うような感じがあったけれど、小説はもっと生々しく赤裸々に人間の欲望や情動が描かれている。また小説で主人公の男は鬱々とした気分がベースにある現実逃避家と読めるのだけど、舞台では少年っぽい可愛らしさと人の好さが前面に出ていて、これは演じた俳優によるところもあると思った。そして小説の行間から感じる“砂”の存在感。頁からサラサラとこぼれてくるような、または頁を繰る指先にざらざら絡みついてくるような、砂、砂、砂に圧倒されて窒息しそうだ。厭わしくとも共存するしかない砂の存在は、たとえばわずらわしい人間関係や共同体での生活といったことを暗に伝えているように思った。

『友達』は文庫では計3本の作品が収録された戯曲集だ。阿部公房が戯曲を書いていたことを全く知らなかったので、加藤拓也演出の舞台を観た時も小説をもとにした作品だと思っていた。KERAさんが原作の小説をかなり忠実に舞台化していた印象に比べて、加藤拓也はもとの戯曲を大幅に改定して上演していたのだということが原作を読んで分かった。見知らぬ9人家族がいきなり家にやってくるという物語の芯になる部分と結末は原作と同じだけど、エピソードの順番が入れ替わっていたり新しいシーンが加えられたり登場人物が増えたり、反対に戯曲のト書きに書かれている細かい指示は丸ごと削除されていたり。先に戯曲を読んでいたら舞台を観ながら戸惑ったかも。原作通りに上演することは重視されていなくて、加藤拓也がアップデートした作品として安部公房の描いた世界を現代に問う舞台だったのだなと思った。確かに1967年初演という戯曲は今読むと古くさく感じてしまう表現や台詞が結構あって、もともとはこうだったのが舞台でああなったのかと驚く部分もあった。他者の生活に寄生して侵食していく人たちの姿は、他人とのかかわりが薄く無関心が横行する現代ではより得体のしれないものと映る。善意を押し付けて笑顔で隣人愛を語る嘘っぽさが、個の存在を許さない全体主義や相互監視社会を思い起こさせて、時代によって様々な読み方を誘う戯曲だと思った。