コンプソンズ『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』

11/10 浅草九劇でコンプソンズ『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』 脚本・演出:金子鈴幸

とあるラーメン屋の店主、よしこ。彼女はラーメン界でも「元アイドル」という異色の肩書きで営業していた。「究極の一杯」を探求し、ラーメン道を日々邁進する彼女。その日もいつもと変わらない一日のはずだったが……周囲の困った大人、訪れる珍客によって巻き起こされるトラブルに通常営業すらままならなくなり、事態は最悪な方向に暴走していく。

コンプソンズの舞台を初めて観てきた。ジャニーズ、地下アイドル、児童ポルノSNSの誹謗中傷、胡散臭いネット記事、統一教会ネタから政権批判まで、これでもかと詰め込んだ上に時間軸が前後する展開なので、今これはいつの話だ?と少々戸惑うところはありつつも迷子になる事はなく一気に観終わったという感じ。意地悪な笑いというか、うっかり笑ってしまったあとにヤバいと思うような、もしくはワンテンポ遅れてジワジワ可笑しみが沸いてくるような作品だ。客演の男優陣が問題ありまくりの人物たちを面白哀しく演じていて皆さんとても達者だった。全体がひとが死ぬ間際に見る人生の走馬灯という枠に入っているのだけど、最後は自分らしく前を向いて生きていく選択を応援するような終わり方になっていて、捻くれているようで後味はよい作品だった。

こまつ座『イヌの仇討』

11/8 紀伊國屋ホールで、こまつ座『イヌの仇討』 作:井上ひさし 演出:東憲司

時は元禄十五年(一七〇二)
十二月十五日の七ツ時分(午前四時頃)。
有明の月も凍る寒空を、裂帛の気合、不気味な悲鳴、そして刃に刃のぶつかる鋭い金属音が駆け抜ける。大石内蔵助以下赤穂の家来衆が、ついに吉良邸内に討ち入った。狙う仇はただ一人。
吉良上野介義央」
上野介は、家来、側室、御女中たちと御勝手台所の物置の中に逃げ込んでいた。赤穂の家来が邸内を二時間にわたって、三度も家探ししていた間、身を潜めていたというあの物置部屋で、彼らの心に何が起こったのか。
――討ち入りから三百二十年、歴史の死角の中で眠っていた物語は三度動き出す。

赤穂浪士の討ち入りを仇である吉良上野介の立場から描いた、大石内蔵助が登場しない「忠臣蔵」。自分がなぜ悪者扱いされなければならないのか全く理解できないという上野介が、物置に忍び込んでいたところを討ち入りに巻き込まれてしまった泥棒(原口健太郎が好演)の口を通して、世間がこの事件をどう受け止めているのかを知り、その背後には悪政に対する庶民の不満(生類憐れみの令の弊害、物価の高騰による貧窮を放置する幕府の無策)があることを知る。世論の代表である人物を設置して当事者と語らせるアイディアが秀逸。そしてなぜ大石内蔵助切腹を覚悟でこの討ち入りを決意したのか、その真意(幕府に対する異議申し立て)に上野介が徐々に気付いていく様をスリリングに追う展開から目が離せない。家来からも女中たちからも慕われる気のいいお殿様であった上野介が仇として憎まれる立場に追い込まれ、最後は自ら討たれることを決意する。時代に翻弄された犠牲者として上野介を描き、その姿を通して権力の横暴に対する批判を強く打ち出した作品だった。

『レオポルトシュタット』

10/26 新国立劇場中劇場で『レオポルトシュタット』 作:トム・ストッパード 翻訳:広田敦郎 演出:小川絵梨子

20世紀初頭のウィーン。レオポルトシュタットは古くて過密なユダヤ人居住区だった。その一方で、キリスト教に改宗し、カトリック信者の妻を持つヘルマン・メルツはそこから一歩抜け出していた。街の瀟洒な地区に居を構えるメルツ家に集った一族は、クリスマスツリーを飾り付け、過越祭を祝う。ユダヤ人とカトリックが同じテーブルを囲み、実業家と学者が語らうメルツ家は、ヘルマンがユダヤ人ながらも手に入れた成功を象徴していた。しかし、オーストリアが激動の時代に突入していくと共にメルツ家の幸せも翳りを帯び始める。大切なものを奪われていく中で、ユダヤ人として生きることがどういうことであるかを一族は突き付けられる......

あるユダヤ人一族の1899年から1955年までを描いた物語。戦争、革命、ナチスの支配、ホロコーストに直面したオーストリアを舞台に、時代に翻弄される家族の形が4世代にわたって紡がれる。この公演では客席を9列目までつぶして舞台を大きく張り出し、回り舞台が転換をスムーズに見せていて、中劇場はこんな使い方もできるのかと驚いた。キャストのうち13役はオーディションで選んだのだそうで、小川絵梨子が新国立劇場の芸術監督として取り組んでいるフルオーディション企画の精神がここでも活かされているのだなと思った。トム・ストッパード作、小川絵梨子演出の舞台は去年コクーンで「ほんとうのハウンド警部」を観たけれど、本作にはトム・ストッパードの自伝的要素も含まれているとのことで前作の印象とはまったく趣きが異なり、一大叙事詩と謳われている通り、大きな時代の流れの中で家族の歴史をまっすぐ正面から見つめる壮大な会話劇だ。ユダヤ人一族の物語を伝えるにあたりアウシュヴィッツ収容所は避けられない史実で、この舞台では収容所で命を落とした親族たちの名前がひとりひとり上げられる場面で幕となるのだけど、50年にわたる一族の人生を客席から追ってきた後では、ああ、あの人もあの人もあの人も収容所に送られて亡くなったのかと身内の死を聞かされるように感じて、家族の絆を通して命のかけがえなさを思うと共に、戦争の悲惨、差別と迫害を繰り返す人間の愚かさを考えずにはいられなかった。とても見応えのある舞台だった。

NTLive『ストレイト・ライン・クレイジー』

10/25 TOHOシネマズ日本橋で『ストレイト・ライン・クレイジー』 作:デヴィッド・ヘア 演出:ニコラス・ハイトナー

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ニューヨークのマスタービルダー(創造主)と呼ばれた男、ロバート・モーゼスは権力者を操りNYの労働者の生活を向上させるために40年間尽力してきたが、彼と対立する考えの抗議団体が現れ、民主主義の弱点が露呈することに・・・。

私はロバート・モーゼス(1888-1981)という人物について全く知らなかったのだけど、この舞台は2部構成になっていて、前半では労働者にはレジャーが必要だと訴えて富裕層の私有地を州立公園にするためにモーゼスが孤軍奮闘する姿を描き、後半で彼の計画は実は車を所有できる経済力のある白人を対象にしたものであり、貧困層や有色人種を見下し蔑ろにしてきた事実が炙り出されていく。もともと裕福な家庭に生まれて、自分では一度も車を運転したことがない(ずっと運転手付きの車に乗ってきたから)というモーゼスは、自分がやりたいことは何か、そのためには何をしたらよいか、という明確な目的と手段を持った人物であったことは間違いないけれど、自分以外の他者に対する興味や関心は全くと言ってよいほど持ち合わせていない。そんな傲慢で横柄で高圧的な男をレイフ・ファインズが嬉々として演じている。モーゼスの胸を張るというよりも反り返るといった方がいいような姿勢や、やたら腰に手を当てる仕草が、最初はなんだか下手な役者が身振りで演技の拙さを誤魔化しているような感じで違和感があったのだけど、物語の後半で威勢の良い言葉を吐いて偉そうに振舞っていても内心では人からどう評価されるかをひたすら気にしている男の弱さがあからさまになり、あの姿勢も仕草も結局は自分を実際よりも大きく見せたいという、それこそモーゼスの演技だったのだなと腑に落ちた。あと劇中で豪放磊落な知事を演じていた俳優がとてもよくて、観たことあるけど何に出ていたかなと考えていたのだけど、「エイリアン3」で一人だけ生き残る囚人モース役のダニー・ウェッブだった。映像でも客席が大いに沸いている様子が伝わってきて、観客の心を掴むチャーミングな魅力に溢れていてすばらしかった。

『パラダイス』

10/19 シアターコクーンで『パラダイス』 作・演出:赤堀雅秋

舞台は東京、新宿。表層的には豊かに⾒える平和ぼけしたこの街で、 虚無感を抱え、底辺で蠢く⼈間たちの不⽑な戦いと裏切り、つかの間の栄枯盛衰の物語。

高齢者を狙った振り込め詐欺グループの話というのはこれまでもあちこちで作品になっていると思うので題材に特段の目新しさはないけれども、この舞台では主人公であるグループリーダーの男が、お金のために他人を騙す悪事を続けながらも、実家の猫の失踪を気に掛けたり自分の家族には気遣いを示したり、ひとりの人間の中に見える二面性の対比が面白い。仕事に15分遅刻した詐欺メンバーに殴る蹴るの鉄拳制裁を加える男は、実家に帰った時には無口で心優しい息子であり、両親も姉も彼がそこに居ることを喜んでいるし、彼も大人しく家族の聞き役に徹している。彼が裏の世界で自分を育ててくれた兄貴分の男に対して殺意を抱くことになるのも、自分の家族に対する嫌がらせが許せなかったからだ。ヤクザとか犯罪者とかの抗争劇かと思いきや(劇中で撃たれたり刺されたり結構人は死ぬけれども)、実は並行して描かれる彼と実家の関係がメインの物語なのだと受け取った。詐欺グループも彼にとっては疑似家族といえるものだったと思うのだけど、そちらが積み重なった不信の果てにあっけなくバラバラになって終わる一方で、実際の家族の日々はこれからも淡々と続いていくだろうことが示される結末。決して家族万歳みたいなことではないのだけれど、それでもギリギリの土壇場で問われる価値観とか選択に家族の存在は影響があるのかもしれないと思った。私が好きな俳優としての赤堀雅秋は、心療内科に通う情緒不安定な男の悲哀を絶妙に演じていて今回もとても良い。そして兄貴分の腰巾着、いつもジャージ姿でテンション高めの能天気な挙動の裏に抱え込んだ狂気が滲む男を演じた水澤紳吾がとても印象に残った。

『秘密の森の、その向こう』

10/18 ヒューマントラストシネマ有楽町で『秘密の森の、その向こう』

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8才のネリーは両親と共に、森の中にぽつんと佇む祖母の家を訪れる。大好きなおばあちゃんが亡くなったので、母が少女時代を過ごしたこの家を、片付けることになったのだ。だが、何を見ても思い出に胸をしめつけられる母は、一人どこかへ出て行ってしまう。残されたネリーは、かつて母が遊んだ森を探索するうちに、自分と同じ年の少女と出会う。母の名前「マリオン」を名乗るその少女の家に招かれると、そこは“おばあちゃんの家”だった──。

セリーヌ・シアマ監督の新作。女性同士が恋に落ちていく様子を緻密に描いた「燃ゆる女の肖像」は非常に心に残る映画だったけれども、今回は三世代にわたる母と娘の物語だ。原題の「Petite Maman」(小さなお母さん)は、ネリーが出会う8歳の時の母親を指していることはもちろん、たとえば映画の冒頭で運転席の母親の口元にせっせとお菓子を運んで食べさせたりする様子からも分かるように、ネリーが日頃から母の心情を気遣い、細々と世話を焼くことでそれこそ母親のように振舞っていることも表しているのだと思う。ネリーが「ママはここに居たくないみたいな時がこれまでにもあった」と言うように、マリオンには夫と娘との暮らしだけでは満たされない思いがあるようで、その不安定さがネリーに母親を支えようとする気持ちを起こさせているのだと思う。ネリーは森の中で23年前の母親とおばあちゃんに出会って3日間を過ごすのだけど、そこでネリーが目にする母と祖母の関係にもどこかしら捻じれが感じられる。親子とはいえ全てを理解している訳ではもちろんなくて、上手くいかない部分も肯定できない部分も互いにあって、血の繋がりがあると思うからこそ余計に感情がこじれてしまう。マリオンが逃げるように家を出ていったのは、楽しかった日々だけではなく哀しく辛かった思い出も蘇ってきたからだろうし、最後にネリーの元に帰ってきた時のマリオンはきっと亡くなった母親への想いに何かしらの折り合いを付けたのだと思う。ネリーは戻ってきた母親にこの3日間の話をきっとするだろう。そして母と娘は親子という枠を超えて向き合って共にあらたな一歩を歩み出すのだろうと思える結末は心地よいものだった。

M&Oplaysプロデュース『クランク・イン!』

10/12 本多劇場で『クランク・イン!』 作・演出:岩松了

1人の新人女優・堀美晴が亡くなった。そのために暗礁に乗り上げていた映画の製作が「この映画を完成させなければ!」という関係者たちの思いのもと、クランクインの時を迎えた。監督・並之木顕之(眞島秀和)からは今や飛ぶ鳥を落とす勢いの主演女優・羽田ゆずる(秋山菜津子)にも繰り返しダメ出しが飛ぶ。そんな中、プロデューサーの紹介でそれなりの役に抜擢された女優ジュン(吉高由里子)が徐々に存在感を増してくる。撮影のために世間から隔絶された場所で、主演女優、マネージャー(富山えり子)、ベテラン女優(伊勢志摩)、若手女優(石橋穂乃香)、それぞれの思惑と愛憎が次第に顕之を追い詰めてゆく――。 堀美晴は殺されたのか、だとしたら誰が彼女を殺したのか……撮影現場は次第に混沌としていき、やがて悲劇的な結末を迎える――。

熱烈なファンであることをアピールして大女優の付き人になった新人女優が主役の座を奪うという展開は「イヴの総て」を思い起こさせるけれど、すべてが計算ずくで小賢しいイヴと比べてこの作品のジュンの言動は、どこに真意があるのか非常に曖昧で掴みどころがない。これは吉高由里子の声質によるところも大きいと思っていて、ひよひよふわふわしていて何を考えているのか分からないという印象がより強まる感じ。このジュンという役はあてがきなのだろうか、舞台上ですごく映えるとか目を引くというタイプではないけれど、あの声で役を味方にしていると思った。この作品では「美晴を殺した犯人は誰か」ということはあまり問題ではなく(途中で犯人は割りとあっさり明かされる)、そんな謎解きよりも中心になるのは「とにかく人は嘘をつくものだ」と示すことだ。保身のための嘘、体面のための嘘、取り入るための嘘、傷つけないための嘘。人は嘘を鎧にしたり剣にしたりしながら生きているものなのだとつくづく思わされる。いつもどおり余白が多くすべてを語らない岩松脚本に答え合わせはなく、いつもどおりぐるぐる考えながら劇場を後にした。