『ちょっと思い出しただけ』

3/8 シネ・リーブル池袋で『ちょっと思い出しただけ』

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映画を観たあとに松居大悟監督のインタビュー記事を読んだ。前作の「くれなずめ」のレビューで「心臓を投げ合うシーンいらない」「超展開が蛇足」と書かれたことで結構落ち込んで、今回はスタッフや出演者の「やめた方がいい」という意見を聞いて終盤のシーンを書き変えたらしい。去年観たゴジゲンの舞台「朱春」でも床下から何だか得体の知れないモノが出てくるという展開があったし、私は「くれなずめ」の前述のシーンも楽しんで観たので、そういう松居脚本らしさがなくなったのはちょっと残念な気がした。でもその分、間口が広くなって受け入れられやすい作品になっていたと思う。この映画は何と言っても伊藤沙莉が本当にすばらしい。ダンサーの照生(池松壮亮)と、タクシードライバーの葉(伊藤沙莉)の、別れから出会いに遡って描かれる物語の中で、誰もが思い当たるような恋愛中のあるあるを等身大にいきいきと演じていて、コロコロ変わる表情もとてもかわいく好感が持てる。そして「ちょっと思い出しただけ」というタイトルもいいと思う。昔好きだったひとの事をふとしたきっかけでちょっと思い出す、でもそれはただそれだけのこと。胸をよぎる思いが甘いにせよ苦いにせよ、交差することのなかった人生をそれぞれ明日も生きていくのだ、戻れない過去を抱えて誰もが今日を生きているのだと、エンディングの夜明けのシーンにはそんな思いが重なるように感じた。

DULL-COLORED POP『プルーフ/証明』

3/7 王子小劇場で DULL-COLORED POP『プルーフ/証明』 作:デヴィッド・オーバーン 翻訳・演出:谷賢一

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<公式サイト掲載のあらすじ> シカゴ、冬。天才数学者・ロバートは103冊のノートを遺して世を去った。家に引きこもり人を寄せ付けようとしない次女キャサリンと、ロバートの研究を引き継ごうと家を訪れる青年ハル、キャサリンの身を案じる長女クレア。3人はやがて1冊の「証明」が書かれたノートを発見する。「数学の歴史が始まって以来、あらゆる数学者たちがずっと証明しようとしてきた」「おそらく不可能だろうと思われていた」証明。ロバート最後の偉業と思われるその「証明」について、キャサリンが驚愕の事実を打ち明ける。この証明は……。

 

演出もコンセプトも異なる3チーム3バージョンの上演ということで、私はCチーム(柴田美波、竪山隼太、水口早香、古谷隆太)の回を観てきた。2000年の初演後、何度も繰り返し上演されてきたアメリカ現代劇の最高傑作と言われる有名戯曲だそうで、私は今回が初見。相手が言い終わる前に言葉尻にかぶせるようにして互いに投げつけ合う言葉の応酬は辛辣で容赦がなく、聞いていて胸が苦しくなるような会話劇だ。キャサリンを演じた柴田美波の今回の演技はちょっとエキセントリックに過ぎて私は好みではなかったけれど、ハル役の竪山隼太は観客を味方につける愛嬌があってよかったと思う。父と娘、姉と妹の関係に、父の教え子である青年の存在が触媒となって、家族間の物語を追ううちに、男社会の学界の中で才能があっても女性であるという理由で低く見られること、親の介護のために自分の夢を諦めること、相手の苦悩や葛藤に思いが及ばないことなど、現代を生きる人間が抱えているさまざまな問題が炙り出されていく。時代を超えて訴えかけてくる強さを持った戯曲であり、また俳優がどう演じるかによって印象が大きく違っただろうと思うと、3チーム3バージョンはなかなか良い企画なのではないかと思った。

『シラノ』

3/3  TOHOシネマズ日比谷で『シラノ』

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2018年の舞台ミュージカルをジョー・ライト監督が映画化した作品。シラノ、ロクサーヌ、クリスチャンは舞台版と同じ俳優がキャスティングされたそうだ。言うまでもなく原作は「シラノ・ド・ベルジュラック」で、シラノは鼻が大きい男性ではなく低身長症の男性という設定になっていて、文武両道で魅力的な好男子なのに自分に自信が持てず、ロクサーヌへの恋心を打ち明けられないシラノ役をピーター・ディンクレイジが見事に演じている。ディンクレイジの出演作はいくつか観ているけれど、こんなに巧い俳優だったのかと正直驚いた。奥行きと深みを感じさせる声もとても良い。ロクサーヌ役のヘイリー・ベネットも、クリスチャンを演じたケルヴィン・ハリソン・Jr もはまり役で、美しい音楽とバレエダンスのシーンをふんだんに盛り込んだミュージカルにしたことで、甘くロマンティックな雰囲気に満ちている。シラノの設定以外にも原作からカットした場面や台詞を変えている部分があり、ロクサーヌへの想いの裏にシラノもクリスチャンも自分自身を欺いているという後ろめたさを隠していて、この映画ではその辛さがより強調された物語になっていたと思う。ひとつ気になったのは、松竹ブロードウェイシネマで観たケヴィン・クライン版(付け鼻あり)もNTLiveで観たジェームズ・マカヴォイ版(付け鼻なし)も、シラノが命を落とすのはロクサーヌを娼婦呼ばわりした相手との喧嘩で負った傷の為なのだけれども(ロクサーヌ自身が何人もの男と寝たと言っている)、この映画のロクサーヌはクリスチャンの死後、修道院に身を寄せて暮らしていて、シラノの死因は戦争で負った古傷の悪化が理由になっていて、ここはロクサーヌがたとえ娼婦に身を落としたとしてもシラノの愛は変わらないこと、彼女を守るために命を懸けたのだと伝える演出の方がよいのではないかと思った。

『冬のライオン』

3/2 東京芸術劇場プレイハウスで『冬のライオン』 作:ジェームズ・ゴールドマン 翻訳:小田島雄志 演出:森進太郎

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1183年のクリスマス、イングランドの国王ヘンリー二世のもとに集まった妻のエレノア、三人の息子たち(リチャード、ジェフリー、ジョン)、ヘンリーの愛妾アレー、フランス王でアレーの異母弟フィリップ。王位と領土を巡って腹に一物ある面々によって壮絶な騙し合いと裏切り合戦の一夜が繰り広げられる。チラシのビジュアルから重厚でシリアスな芝居をイメージしていたのだけど、予想に反して思わず吹き出してしまうコミカルな場面の連続で、権力も欲しい愛も欲しい人間たちが右往左往する様が笑いの中に炙り出される非常に見応えのある舞台だった。俳優陣も達者で、特に佐々木蔵之介(ヘンリー王)と高畑淳子(エレノア)の掛け合いはとても息が合っていて、テンポの良さと絶妙な間合いが“夫婦漫才”かというようなノリですごく楽しい。お互いに憎まれ口を叩きながらもふと愛しさがこぼれてしまうような、切々と心情を語る言葉に思わずホロリとして、なのに次の場面では「え、さっきの嘘なの?」とちゃぶ台ひっくり返される。こんな会話が夫婦間だけでなく、父と息子たち、母と息子たち、兄弟たちのあいだでも同様に交わされて、その言葉は嘘か真か、本音はどこにあるのか、二転三転する展開は先が読めずスリリングで目が離せない。クリスマスなのにこの家族たちに一家団欒のムードは全くなく、それでも自分を愛してほしいという想いを諦め切れない哀しさが垣間見えて切ない。物語が進むにつれて、この夫婦は互いに相手を強く愛し過ぎていたがために、その分憎む気持ちも一層深くなったのだと分かる。そうして長い年月を過ごし歳を重ねて、いつしか男と女というよりも人間同士として、他の誰よりも理解できる存在であり心を許せる存在としてお互いを認めているのだ。2人のあいだには何があっても消せない繋がりがあることを静かに伝える結末、その余韻に心地よく浸った。

 

『クレッシェンド 音楽の架け橋』『ガガーリン』『ドリームプラン』

2/11  ヒューマントラストシネマ有楽町で『クレッシェンド 音楽の架け橋』

2/25  ヒューマントラストシネマ有楽町で『ガガーリン』 

3/2  TOHOシネマズ日比谷で『ドリームプラン』

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『クレッシェンド 音楽の架け橋』 今も紛争が続くイスラエルパレスチナ。それぞれの国の音楽家が集まって1999年に設立された実在の和平オーケストラに着想を得て作成されたというこの映画は、プロの音楽家を夢見る若者たちの姿を通して、対立や憎悪の現実を浮き彫りにしていく。平和を祈るコンサートのため世界的な指揮者のもとにオーディションを勝ち抜いて集ったものの、テロや爆撃に晒される日常を生き、祖父母たちから争いの歴史を繰り返し聞かされて育った若者たちは、互いに対する悪感情を隠すことができず激しくぶつかり合う。マエストロが若者たちに相手の音をしっかり聴かなければ美しい音楽は生まれないと語り、演奏の指導よりもお互いを認め合うことを教えていくのは、簡単ではないけれど音イコール相手の声を聴くこと、そこにきっと共存への手掛かりがあるという願いだと思う。マエストロの試みはうまく運んだかに見えたけれど、刷り込まれた憎しみを消し去ることはできない。結局コンサートは実現できずに物語は終わるのだけど、寝食を共にして語り合い愛する音楽を共に演奏したことで若者たちの中に起きた変化は、ちいさいけれど確かな希望だと感じられる映画だと思った。

ガガーリン』 旧ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの名を冠したパリ郊外の大規模団地“ガガーリン”。実在したこの団地は老朽化と2024年のパリ五輪のために2019年に取り壊されたそうで、この映画は解体前の団地で撮影を行ない、宇宙飛行士になることを夢見る16歳の少年ユーリの物語ではあるものの、ニュース映像や過去の入居者のインタビューなどで語られるガガーリン団地(に象徴されるような消えゆくものへの想い)が主人公とも言えるのではないかと思った。ユーリは生まれ育った団地の解体を何とか阻止しようと奮闘するけれど計画は着々と進み、住人は次々に退去して団地は無人になっていく。恋人のもとに行ったきり帰らない母を待ちながら、ユーリは空っぽになった住居を廃品を使って宇宙船に改造し、たった一人で暮らし始める。監督/脚本のファニー・リアタールによると「建物は母親のおなかの中を表していて、そこから出ていくことを拒む少年の姿が描かれている」のだそうだ。孤独な日々の中で生み出されるユーリの創造の世界が幻想的でとても美しい。辛い時こそ人は空想する力に助けられるのかもしれない。母親から捨てられた自分を無人になった団地に重ね、団地の解体=母親を失うことに抗い続けたユーリだけど、最後は自分の意志で外に一歩踏み出すことを決意する。過去への決別と新しい世界への再生を少年の目を通して瑞々しく描いた秀作だった。

『ドリームプラン』 ヴィーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹を世界チャンピオンに育て上げた父親リチャード・ウィリアムスの“実話”と謳っているけれど、どこが事実でどこからがフィクションかはよく分からない。「ドリームプラン」とは娘をテニス選手にするためにリチャードが書いた78ページの計画書のことだ。テニス経験皆無でお金もコネもない中で、2人の娘のために奮闘するリチャードの行動力は半端ない。けれども映画の原題「King Richard」がまさに言い当てているとおり、家族もコーチ陣も有無を言わさず自分の意見に従わせ、王のように振舞う独裁者のリチャードは相当問題のある人物だと思う。リチャードが娘たちの成功を心から願っていることは分かるし、初めての黒人テニスプレーヤーというマスコミや世間の注目(時には中傷や揶揄)から守りたいということもよく分かる。それまで白人選手しかいなかったテニス界にヴィーナスが出てきた時、私自身とても驚いた記憶があるし、映画の中でもヴィーナスが「商品」として扱われる危うさが描かれていた。そのあたりを主題にしてもよかったのではないかとも思ったけれども、それにしても破天荒という言葉では収まらないリチャードの良い面も悪い面も偏ることなく描いた映画ではあると思う。テニス界の裏側的な部分も垣間見え、また試合シーンはとても臨場感があって良かった。

ほりぶん『かたとき』

2/24 紀伊國屋ホールで、ほりぶん『かたとき』 作・演出:鎌田順也

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前回公演「これしき」の世界(女性たちによる街の自警団)を引き継ぎつつ、客演の又吉直樹を真ん中に据えつつ、会場が今までになく大きな紀伊國屋ホールになっても、ほりぶんの作品はいつもと何ら変わることなく、今回もパワー全開の女優陣の体当たり演技にひたすら笑った。川上友里、川口雅子、新井雛子の3人はいつ観ても鉄板の面白さ。客演陣ではきたろうの文句なしの不審者ぶりと、猫背椿の芝居の巧さがとても印象に残った。そして次回公演は待ちに待った「牛久沼8」を9月下旬に上演予定だそうで、これは非常に楽しみ。こんどはどんなウナギ争奪戦が観られるのか、絶対観に行く。

『ラビット・ホール』

2/23  KAAT神奈川芸術劇場大スタジオで『ラビット・ホール』 作:デヴィッド・リンゼイ=アベアー 上演台本:篠崎絵里子 演出:小山ゆう

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【公式サイト掲載のあらすじ】

ニューヨーク郊外の閑静な住宅街に暮らすベッカとハウイー夫妻。

彼らは8カ月前、4歳だった一人息子のダニーを交通事故で失いました。ダニーとの思い出を大切にしながら前に進もうとする夫のハウイー。それに対し、妻のベッカは家の中にあるなき息子の面影に心乱されます。そのような時にベッカは、妹イジーから突然の妊娠報告を受け戸惑い、母のナットからは悲しみ方を窘められ、次第に周囲に強く当たっていきます。お互いに感じている痛みは同じはずなのに、夫婦・家族の関係は少しずつ綻び始めていました。

ある日、夫妻の家にダニーを車で轢いたジェイソンから手紙が届きます。会いたいというジェイソンの行動に動揺を隠せないハウイーですが、ベッカは彼に会うことを決意します。

 

2007年のピューリッツァー賞戯曲部門を受賞したというデヴィッド・リンゼイ=アベアーの戯曲は、もちろん篠崎絵里子の日本語訳がすばらしいこともあると思うのだけど、非常に心に響く台詞の数々に惹きつけられた。幼い子供を亡くすという同じ悲劇の中にあって、夫婦はそれぞれが違う悲しみ方をする。子供を思い出させる物たち(洋服やおもちゃ、写真や息子が書いた絵)を目の前から消してしまいたいベッカ(小島聖)、保存してある息子の動画を毎日眺めて、思い出をいつまでも手元に残しておきたいハウイー(田代万里生)。お互いに相手の気持ちが理解できない2人は激しくぶつかり合う。そんな中でベッカがハウイーに告げる「わたしはあなたが気に入るような悲しみ方をしていないだけ」「わたしは正しく悲しんでいないのかもしれないけど、あなたと同じぐらい悲しんでいる」という言葉に胸を突かれた。相手が何を感じているかを想像して理解しようと努力すること。たとえ自分とは違っていても相手の想いを尊重して寄り添うこと。これは加害者であるジェイソンに対しても言えることで、彼はお詫びの手紙に「haha」、日本語なら「(笑)」と書いてしまうような少年だけど、後悔も申し訳ないという気持ちもきちんと持っていて、彼には彼の悲しみがあり、その伝え方がこちらの思うところと違うだけなのだ。他者に共感しようとすることは簡単ではない。けれども自分だけの悲しみを2人の悲しみとして共有することで、夫婦は辛い現実に向き合い共に乗り越えようとし始める。そしてベッカから「この悲しみはいつか消えるの?」と問われた母親(木野花)の(この木野花がまた本当に素晴らしかったのだけど)「消えない。消えないけれど少しずつ慣れていく。悲しみはポケットの中の石ころみたいで、あることを忘れている時もあるけど、ふと思い出して触って、やっぱりそこにあることに安心する」という言葉に思わずはらはらと泣いた。消えてなくなることはない悲しみを抱え、それでも支え合いながら生きていく人間の姿を描いて、非常に辛い内容ではあるけれど最後にはささやかな救いが感じられる、とても良い舞台だった。