ほろびて『苗をうえる』

2/22 下北沢OFF・OFFシアターで、ほろびて『苗をうえる』 作・演出:細川洋平

f:id:izmysn:20220224162748p:plain左手が刃になってしまった女子高生とその母親。母親がつきあっている無職の男。認知症になった老婆と、彼女の世話をしている孫の小学生男子。5人の登場人物によって描かれたのは“人が人を傷つけること”を巡る物語だった。刃になった手がうっかり相手を刺したり突いたりしてしまうように、何気なく口にした言葉で傷つく相手がいる。そして刃になった手という形で象徴されるように他人とは違う個性を持つ人たちがいて、そうした人たちに対する不寛容と差別の意識。いきなり不当な扱いを受ける立場に追い込まれ、それは誰にでも、もちろん自分にも起こり得るのだという怖さも滲む。劇中で相手を罵り攻撃する言葉には容赦がなくて辛辣であからさまな負の感情に満ちていて、言われた方がどう感じるかという思いはそこに一切なく、非常に耳に辛い。そんな絶望の底で、苗を買って育てるという行為が伝えるのは小さな希望の気配だと思った。苗がちゃんと育つように水をやり陽にあてて面倒を見ることが、ほんの少しでも他者を思いやる感情に繋がればいいと思うし、憎しみの感情を持って生まれてくる人間はいないのだから、子供たち=苗という見方もあるのではないかと思った。ほろびてを観るのはこれが3作目で、出演している俳優がみんな良いなと毎回思うのだけど、今作も俳優陣の生々しく巧みな演技は素晴らしく見応えがあった。

『シラノ・ド・ベルジュラック』

2/16  東京芸術劇場プレイハウスで『シラノ・ド・ベルジュラック』 作:エドモン・ロスタン 脚色:マーティン・クリンプ 翻訳・演出:谷賢一

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マーティン・クリンプ脚色、ジェームズ・マカヴォイがシラノを演じた「シラノ・ド・ベルジュラック」は、シラノの付け鼻をやめ台詞をラップで演じる斬新な舞台で、一昨年NTLiveで観てすごく良かったのだけど、この舞台の初日本語版が谷賢一の翻訳・演出で上演されるということで、どんな風に演じられるのか楽しみにしていた。舞台上に階段が組まれた美術と、劇中で俳優たちが向き合って会話をせずにそれぞれが正面を見て台詞を言う演出は、オリジナル版を踏襲した形になっていたけれど、芸劇プレイハウスの高さのある空間を十分に活かして俳優を高いところと低いところに縦に配置する場面も多用している。古川雄大は秘めた恋心に苦悩するシラノを繊細に演じていて、口跡の良さと台詞を音楽に載せていく巧さはさすがにミュージカル畑の人だなと思った。シラノがロクサーヌへの想いを切々と語る場面は非常にエモーショナルで見せ場のひとつだ。またシラノは自分の創り出す詩の言葉に対して非常に高いプライドを持っており、政治や権力によって言葉が歪められることに断固抵抗し、言葉を語る自由は何よりも大切だと言う。この主張はオリジナル版よりも強く印象に残る演出で、創造に携わる者たちへのエールであり、言論が統制されるような社会への警鐘だ。そして最近の舞台は映像の使用が昔に比べて格段に増えていると思うのだけど、この舞台でも階段の上部がスクリーンになっていて映像が流される。俳優の顔をアップで映すところはピントが合っていなかったりであまり効果的ではないけれど、劇中で確か2回、ラップの台詞を文字にして映したのは良いと思った。というのも幕開きからラップ部分の台詞が耳に馴染まなくて全く聞き取れず、しばらく何を言っているのか分からないという状態だったからだ。言葉遊びのような部分は同義語を多く持つ日本語の特性が翻訳に活かされていて面白かったのだけど、日本語の台詞をラップで演じる難しさというか伝わりにくさも感じることになった舞台だった。

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『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

2/16 キネマ旬報シアターで『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

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アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞など最多11部門ノミネートというニュースを見て、結果発表の前にぜひ観ておかなくてはとキネマ旬報シアターへ。今年作品賞の候補になっている10作品のうち本作を含めてこれまで5本を観た中で、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』はオスカー本命と言われるのもまさに納得の恐ろしく緻密で周到な心理劇であり、ベネディクト・カンバーバッチの凄まじい演技は圧巻だった。カンバーバッチが演じる粗野で傍若無人な牧場主のフィルは、冒頭から弟のジョージに異常な執着を示す様が描かれて、兄としての愛情を超えた欲望があるのではないかと予感させる。この予感は物語が進むにつれて強まっていき、女性に全く興味がなく女性的とされるものを毛嫌いし、兄の呪縛から逃れるようにジョージは未亡人のローズと結婚するのだけど、ローズに対して執拗に露骨な嫌がらせを続けるフィルは、実は隠れた同性愛者なのだという事実が明かされていく。フィルが自分の命の恩人であり伝説のカウボーイとして何度も話題にするブロンコ・ヘンリーは、フィルの最初でおそらく最後の恋人であり、ブロンコの死後フィルは誰にも打ち明けることができない秘密を抱えて孤独に長い年月を過ごしてきたのであり、あえて“男らしく”振舞うことで自分を誤魔化し、それでも埋められない寂しさの反動が弟ジョージに対する執着になっていたことを観客は知るのだ。一つ屋根の下に暮らしながらフィルとジョージとローズの関係は一触即発の緊張感に満ちていて、ローズは重度のアルコール依存症になってしまう。そしてローズの連れ子であるピーターが大学の休暇で牧場にやってきたことで物語の展開は大きく変わる。おとなしくて華奢なピーターを最初フィルは馬鹿にして見下しているのだけど「山の影が吠えている犬の姿に見える」というこれまで自分とブロンコだけのもので他の誰も気づかなかった景色がピーターには見えていたことを知って、フィルの内なる声が囁くのだ、もしかしたらピーターは自分と同類なのではないか、秘密を分かち合える相手なのではないかと。ここで実際にその声が映像に流れるわけではない、けれどもそうフィルが感じたということをカンバーバッチの演技は確実に観客に伝える。実はピーターはフィルが同性愛者である証拠を偶然見つけて知っていて、ここで立場の逆転が起こり、ピーターが母親を精神的に追い詰めたフィルを殺そうと計画しているのも知らず、フィルはブロンコと自分のような関係をピーターと結ぶことを夢想し始める。この映画にはセックスシーンもキスシーンも出てこないけれども、ブロンコが愛用していた鞍に触れるフィルの手の動き、フィルがピーターのために編んでいるロープの穴に紐がゆっくりと通される様、ブロンコの遺品のスカーフを愛おしそうに肌に這わせるフィルの姿など、非常に官能的でエロティックな描写にハッとさせられる。そして終盤、まさにピーターがフィルに罠をしかけたその時に、一本の巻き煙草を回し飲みしながらピーターを見つめるフィルの表情。フィルの欲望をピーターが利用していることに全く気付かず、微塵もピーターを疑わず、彼は自分を愛してくれるのか、あの孤独な日々はこれで終わるのか、抱きしめたら応えてくれるだろうか、そんな期待と不安に駆り立てられて、ただただ切実に愛を求めるひとりの人間のあまりにも深く悲しい願いが込められたその表情に言葉を失った。フィルを演じたカンバーバッチ、本当に本当に素晴らしかった。1925年のアメリカ北西部モンタナ州を舞台に、人間の孤独な魂と愛に対する渇望を濃密に描きだした監督ジェーン・カンピオン、恐るべし。

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『ウエスト・サイド・ストーリー』

2/14  TOHOシネマズ日本橋で『ウエスト・サイド・ストーリー』f:id:izmysn:20220217162253j:plain井上ひさしが音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」で ♪もしもシェイクスピアがいなかったらバーンスタインは「ウエスト・サイド」をとても作曲できなかっただろう♪ と書いたとおり、1950年代のニューヨークを舞台に描かれた「ロミオとジュリエット」の世界。ブロードウェイで上演された舞台を映画化した1961年版の「ウエスト・サイド物語」を初めて観たのは後年テレビで放映されたもので、ベルナルドを演じたジョージ・チャキリスのダンスシーンの格好良さに子供ながらすごく惹かれた覚えがある。この映画が分断と対立から起こる悲劇を描いたものだと理解したのはもう少し歳を重ねて観てからで、そしてダンスはもちろんこのミュージカルの魅力は何と言ってもバーンスタインの音楽で、今回あらためてそのすばらしい曲の数々に胸を打たれた。

脚本トニー・クシュナー、監督スティーブン・スピルバーグで60年振りにリメイクされた今作、ストーリーの流れは1961年版と大きく変わるところはないのだけど、曲の順番やシーン、歌う人物が若干変更されている。前作では深夜の屋上で歌われた“America”はプエルトリコ系の住人が集う明るい昼間の街中で、リフが殺された後にジェッツのアイスが歌った“Cool”は決闘を止めようとトニーがリフを説得する場面で歌われる。そして一緒に街から逃げることを約束したトニーとマリアがデュエットした“Somewhere”は、バレンティーナ(前作のドクにあたる人物で、演じるのは前作でアニータ役のリタ・モレノ)がひとりで歌う。バレンティーナは白人男性と結婚したプエルトリコ人で、ヨーロッパ系のジェッツとプエルトリコ系のシャークスの対立に気を揉んでいる老女という設定だ。彼女の結婚を快く思わなかった人は白人にもプエルトリコ人にもきっとたくさんいて、蔑みの目で見られたり迫害を受けただろうことは想像に難くない。そんなバレンティーナが“Somewhere”を歌うことで、「どこかにきっと私たちの場所がある」という歌詞がトニーとマリアだけでなく社会にも家庭にも居場所がないと感じている人たち、いわれのない差別を受けている人たち、孤独な哀しみを抱えた人たちの願い・想いになり、今作でこのシーンが私は一番胸にきた。この映画が伝える「憎しみからは何も生まれない」という声は半世紀以上が経っても観客の心に響くものであり、まさに現代の問題として訴えかける強さがある。今回初めて「ウエスト・サイド」を観た若い人たちにも、この映画はきっと記憶に残る一本になったのではないかと思うし、私はこのリメイク版を心から楽しむことができた。

マリア役のレイチェル・ゼグラー、トニー役のアンセル・エルゴートを始め、オーディションで役を掴んだという若手のキャストたちは、みんなそれぞれの役をいきいきと演じていて、特にアニータを演じたアリアナ・デボースがとても良かった。映画の前半アンセル・エルゴートが193cmというデカい身体を持て余しているみたいというか、なんだか不安定でふわふわしていて、挙動も表情も中途半端な印象を受けたのだけど、途中からはこの思い切りの悪い感じが自分の人生を模索するトニーの迷う姿に重なって見えてあまり違和感を感じなくなった。エルゴートはバレエを習っていた事があるのだそうでダンスは無難にこなしていたし、喋る声は割と太くて低いのに歌うとハイトーンのきれいな声が出ていて特に“Maria”から“Tonight”を歌うところはよかった。

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コクーン歌舞伎『天日坊』

2/9 シアターコクーンで『天日坊』 原作:河竹黙阿弥 脚本:宮藤官九郎 演出・美術:串田和美

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幕末以来長らく上演されることのなかった黙阿弥の戯曲を、宮藤官九郎の脚本で『天日坊』として復活上演したのが2012年。今回10年ぶりの再演ということで、私は今回が初見だったのだけどすごく面白かった。休憩20分を含めて3時間、物語の世界に引き込まれ没頭した。こんなに面白い戯曲の上演が絶えていたのは何故だろうと思ったけれど、元々の非常に長い戯曲を半分に削ることから脚本作りが始まったと宮藤官九郎が公演パンフに書いていて、物語の芯を探り、どこを際立たせるか絞り込んで凝縮した結果この面白さが生まれたということで宮藤脚本すばらしい。ふとしたきっかけから将軍頼朝の落胤になりすました孤児の法策(中村勘九郎)は、鎌倉を目指す旅の途中で盗賊・地雷太郎(中村獅童)とその妻お六(中村七之助)と出会う。自分が実は木曾義仲に繋がる血筋の者であったことを二人から知らされた法策は、天日坊と名乗りを上げ、天下を取るという野望を胸に人生を賭けた大勝負に出る…というのが大筋なのだけど、法策/天日坊の波乱万丈の生涯を描くことが軸になっているので勘九郎さんは出ずっぱりの大活躍だ。この舞台では生バンドによる演奏が効果的に使われていて、法策が初めて人を殺す場面ではトランペットの音色がその緊張感を煽る。衣装も面白くて七之助さんの着物の髑髏をあしらった大胆な柄が目を引いた。全編通して法策が何度も口にするとおり「マジか…」の連続、こう思っていたら実は…が繰り返されて人間関係は絡み合い、敵味方は二転三転する。そして親が誰かということで持ち上げられたり、身寄りがないことで蔑まれたりする理不尽、何者でもなかった法策が身分を利用してのし上がろうとする姿に、これも宮藤官九郎が書いていた「あまり使いたくない言葉だけど親ガチャの話」という視点を脚本に加えたことが、今の時代の空気とも重なって観客に受け止められたのだと思う。本当に見応えのある舞台だった。またいつか必ず再演してほしい。きっと観に行く。

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午前十時の映画祭『ファーゴ』

2/9  TOHOシネマズ日本橋で『ファーゴ』(1996年)

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多額の借金に悩む自動車ディーラーのジェリー(ウィリアム・H・メイシー)は、自分の妻を偽装誘拐させ、資産家の義父から身代金を引き出そうと考える。ジェリーに依頼されたカール(スティーヴ・ブシェミ)とゲア(ピーター・ストーメア)は、妻の誘拐に成功したものの、逃走中、職務質問をかけてきたパトロール警官を射殺し、その目撃者までも殺害。捜査に当たった身重の警察署長マージ(フランシス・マクドーマンド)は冷静な推理で少しずつ事件の真相に迫るものの、不測の事態が起こって更に死体が転がることになる……。

コーエン兄弟の映画の中でも好きな一本。久しぶりに映画館で観たけれど、登場人物を演じる俳優陣がとても良い仕事をしているとあらためて思った。フランシス・マクドーマンドはもとより、目撃者に“ヘンな顔”と連呼されるスティーヴ・ブシェミの小物感も、全く表情を変えないピーター・ストーメアの得体の知れなさも良い。特にウィリアム・H・メイシ―の演技はすばらしく、気が小さくて相手に言い返せない人間の弱さ、ことごとくやり込められる人間の悲哀を、その歪んだ表情と泣きそうに見開いた目で切々と伝えてくる。カールとゲアにナンパされる女子ふたりも、その如何にもあたまのわるそうな喋り方といい見た目といい、よく見つけてきたなと思うキャスティングに感心しつつこのシーンは大いに笑った。一面の雪景色の中で陰惨な殺人が雪だるま式に起きるのだけど、動機も引き金になる出来事もどこかしら滑稽で卑小だ。美しい自然を背景に愚かな人間たちの姿が描かれる悲喜劇。午前10時の映画祭11のラインナップの中でも楽しみにしていた作品で、やはり傑作、観られてよかった。

『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イブニング・サン別冊』

2/8  TOHOシネマズシャンテで『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イブニング・サン別冊』

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フランスの架空の街を舞台に綴られるオムニバス映画。「フレンチ・ディスパッチ」はカンザスにある新聞社がフランスの支社で発行している雑誌という設定で、アメリカ生まれの編集長の急死によって雑誌の廃刊が決まり、次に出るのが最終号だと映画の冒頭で明かされる。そうとは知らずに曲者の執筆者たちが書いた記事を映像化した3つの物語に、その記事が書かれた時にそれぞれの執筆者と編集長の間で交わされた会話のシーンが挿入される。3つの物語はどれも監督ウェス・アンダーソンのユーモアとひねりが効いていて面白く、豪華な俳優陣が次から次から出てきて観ていてとても楽しい。一枚の絵のようにこだわり抜いた構図、突然アニメーションで描かれるシーン、モノクロになったりカラーになったりする映像、エンドロールで紹介される「フレンチ・ディスパッチ」誌各号の表紙イラストなどなど、全編通して監督の遊び心とセンスが炸裂していて、その独特の世界を気持ちよく旅したように感じる映画だった。ただ登場人物たちがフランス語にしろ英語にしろ結構みんな言葉数が多いので、それに字幕が追い付かないというか、かなりの意訳だろうなと感じるところもあり(もちろん字幕なしでは全然理解できないので字幕監修の方にはいつも感謝しかないのだけれども)時々掴み切れない部分があったのは残念。

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