『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

2/16 キネマ旬報シアターで『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

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アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞など最多11部門ノミネートというニュースを見て、結果発表の前にぜひ観ておかなくてはとキネマ旬報シアターへ。今年作品賞の候補になっている10作品のうち本作を含めてこれまで5本を観た中で、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』はオスカー本命と言われるのもまさに納得の恐ろしく緻密で周到な心理劇であり、ベネディクト・カンバーバッチの凄まじい演技は圧巻だった。カンバーバッチが演じる粗野で傍若無人な牧場主のフィルは、冒頭から弟のジョージに異常な執着を示す様が描かれて、兄としての愛情を超えた欲望があるのではないかと予感させる。この予感は物語が進むにつれて強まっていき、女性に全く興味がなく女性的とされるものを毛嫌いし、兄の呪縛から逃れるようにジョージは未亡人のローズと結婚するのだけど、ローズに対して執拗に露骨な嫌がらせを続けるフィルは、実は隠れた同性愛者なのだという事実が明かされていく。フィルが自分の命の恩人であり伝説のカウボーイとして何度も話題にするブロンコ・ヘンリーは、フィルの最初でおそらく最後の恋人であり、ブロンコの死後フィルは誰にも打ち明けることができない秘密を抱えて孤独に長い年月を過ごしてきたのであり、あえて“男らしく”振舞うことで自分を誤魔化し、それでも埋められない寂しさの反動が弟ジョージに対する執着になっていたことを観客は知るのだ。一つ屋根の下に暮らしながらフィルとジョージとローズの関係は一触即発の緊張感に満ちていて、ローズは重度のアルコール依存症になってしまう。そしてローズの連れ子であるピーターが大学の休暇で牧場にやってきたことで物語の展開は大きく変わる。おとなしくて華奢なピーターを最初フィルは馬鹿にして見下しているのだけど「山の影が吠えている犬の姿に見える」というこれまで自分とブロンコだけのもので他の誰も気づかなかった景色がピーターには見えていたことを知って、フィルの内なる声が囁くのだ、もしかしたらピーターは自分と同類なのではないか、秘密を分かち合える相手なのではないかと。ここで実際にその声が映像に流れるわけではない、けれどもそうフィルが感じたということをカンバーバッチの演技は確実に観客に伝える。実はピーターはフィルが同性愛者である証拠を偶然見つけて知っていて、ここで立場の逆転が起こり、ピーターが母親を精神的に追い詰めたフィルを殺そうと計画しているのも知らず、フィルはブロンコと自分のような関係をピーターと結ぶことを夢想し始める。この映画にはセックスシーンもキスシーンも出てこないけれども、ブロンコが愛用していた鞍に触れるフィルの手の動き、フィルがピーターのために編んでいるロープの穴に紐がゆっくりと通される様、ブロンコの遺品のスカーフを愛おしそうに肌に這わせるフィルの姿など、非常に官能的でエロティックな描写にハッとさせられる。そして終盤、まさにピーターがフィルに罠をしかけたその時に、一本の巻き煙草を回し飲みしながらピーターを見つめるフィルの表情。フィルの欲望をピーターが利用していることに全く気付かず、微塵もピーターを疑わず、彼は自分を愛してくれるのか、あの孤独な日々はこれで終わるのか、抱きしめたら応えてくれるだろうか、そんな期待と不安に駆り立てられて、ただただ切実に愛を求めるひとりの人間のあまりにも深く悲しい願いが込められたその表情に言葉を失った。フィルを演じたカンバーバッチ、本当に本当に素晴らしかった。1925年のアメリカ北西部モンタナ州を舞台に、人間の孤独な魂と愛に対する渇望を濃密に描きだした監督ジェーン・カンピオン、恐るべし。

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