午前十時の映画祭『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザー PARTⅡ』『ゴッドファーザー<最終章>: マイケル・コルレオーネの最期』

4/6『ゴッドファーザー』(1972年)

4/13『ゴッドファーザー PARTⅡ』(1974年)

4/20『ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期』(1999年)

TOHOシネマズ日本橋ゴッドファーザー三部作(4Kリマスター版)。できれば三作一挙上映する日を設定してほしかったなあと思ったけれども、3週にわたってこの名作を心の底から楽しんだ。とにかく俳優陣がすばらしい。マーロン・ブランドの視線ひとつ手の振りひとつで醸し出される圧倒的な存在感、父の跡目を継ぎ「ドン」として凄みが増していくアル・パチーノの表情、若きヴィトを説得力を持って演じたロバート・デ・ニーロ。次兄フレド役のジョン・カザールもケイを演じたダイアン・キートンもとても良い。ニューヨークの裏社会で生きるファミリーの物語を重層的に描いて、それぞれ3時間近い上映時間もまったく飽きることがない。第一作と第二作の録画は過去に何度も繰り返し観ていたけれども、映画館で大きなスクリーンで観るのはやはり別格。そして今回の三作上映の目当ては最終章。「ゴッドファーザー PARTⅢ」として1999年に上映されたものをコッポラが再編集したもので、私もPARTⅢは前2作に比べてあきらかにつまらないと思っていたのだけど(ただしアンディ・ガルシアは間違いなくめちゃめちゃ良い)、編集によってこんなに印象が変わるのかと驚くほど面白かった。ファミリーを守るために戦ってきたけれど自分自身の家族は失ってしまったマイケル、その人生の最終章としてとても見応えのある映画になっていた。

そして思い出したのはアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の功労賞をダイアン・キートンが受賞した時のアル・パチーノのスピーチ。ゴッドファーザーの撮影時のマーロン・ブランドダイアン・キートンのエピソードが語られている。AFIで功労賞を受賞した俳優に受賞者と共演したり関わりのある俳優がお祝いの言葉を贈るのだけど、どのスピーチも心がこもったとても暖かいもので相手に対する尊敬と愛に溢れていて、お気に入りがいくつもある。これもその中のひとつ。

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『アンチポデス』

4/15 新国立劇場小劇場で『アンチポデス』 作:アニー・ベイカー 翻訳:小田島創志 演出:小川絵梨子

ある会議室に男女8人が集められている。
そこがどこであるのか、いつであるのかも不明だが、リーダーであるサンディのもと、彼らは企画会議として「物語を考える」ためのブレインストーミングを始める。新たなヒット作を生むためである。
サンディは「ドワーフやエルフやトロルは無し」と言う。恐ろしさや怖さの中にも消費者が親近感を覚えるリアルな物語を採用したい、と。
既存の作品の焼き増しではない新しい物語を生み出すために、参加者たちは競うようにして自分の「リアル」な物語を披露していく。やがて会議室の外に世界の終末のような嵐が訪れる。

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新国立劇場の新シリーズ「声 議論, 正論, 極論, 批判, 対話…の物語」の第一弾。リアルな物語とは何なのか。自分が経験したリアルを言葉にして語れば語るほど、話はとても個人的な小さい世界に閉じていくようで、誰もが共感するような普遍的な物語には到底なり得ないものに思われてくる。あからさまに自分を語ることに抵抗を感じる者もいるけれど、そんなためらいは周囲からスルーされて、聞き手にウケるように巧く語れないとその場に居づらいような雰囲気が会議室に拡がっていく。三方から舞台を囲むように客席が組まれていて、語る人の言葉よりも聞き手たちの表情や目配せ、相槌や沈黙、もしくは椅子に座る姿勢などが雄弁にそのひとの感情を伝えてくる様を観客は目の当たりにする。ひとは口に出す言葉以外の部分でいかに多くのことを語っているかが如実に伝わってきて興味深い。言葉で本当のことを伝える難しさ、もっというと言葉で本当のことが伝わるのかという疑問。そもそも相手に伝えたいことと相手に伝わったことはイコールなのだろうか、同じことについて話していると思い込んでいるだけなのではないだろうか。そんな言葉をめぐるさまざまが頭をグルグルする戯曲であり、何かしらの答えが観客に示されるのではなく、それぞれが言葉というツールについて、相手の話を聞くと言う行為について、思いを巡らせ考えることを促す作品だと思った。

『広島ジャンゴ 2022』

4/13  シアターコクーンで『広島ジャンゴ 2022』 作・演出:蓬莱竜太

<公式サイトのあらすじ>

舞台は現代の広島の牡蠣工場。
周囲に合わせることをまったくしないシングルマザーのパートタイマー山本(天海祐希)に、シフト担当の木村(鈴木亮平)は、手を焼いていた。
ある日木村が目覚めると、そこはワンマンな町長(仲村トオル)が牛耳る西部の町「ヒロシマ」だった!
山本は、子連れガンマンの「ジャンゴ」として現れ、木村はなぜかジャンゴの愛馬「ディカプリオ」として、わけもわからぬまま、ともにこの町の騒動に巻き込まれていく―――!

 

西部劇の部分は木村が見ている夢の中という枠に入っているのだけど、この作品は現代に蔓延るさまざまなハラスメントを取り上げて、上司の言いなりだった木村が「ヒロシマ」での経験を経て、理不尽な言動に勇気を奮い起こして立ち向かうようになるまでを描いている。木村役の鈴木亮平がとても良い。人の顔色ばかり伺っている気の小さい男が、良心と押し付けられた仕事の狭間で抱える葛藤を丁寧に演じていて、ラップのシーンもとても楽しい。本人のひとの良さというか観客に愛される愛嬌がよく活かされていると思った。コミカルで笑えるシーンも多いのだけど、舞台の終盤、悪徳町長が「俺みたいな人間は世の中から居なくなることはない」(ハラスメントはなくならない)というのに対して「ジャンゴも居なくならない」(声を上げることをやめない)という天海祐希の台詞から、ハラスメントを他人事にしない、見ないふりをしない、そこから変化は起こせるはずだという作品に込められた思いが伝わってくるように感じた。

『もはやしずか』

4/12  シアタートラムで『もはやしずか』 作・演出:加藤拓也

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康二と麻衣は長い期間の不妊に悩んでいる。やがて治療を経て子供を授かるが、出生前診断によって、生まれてくる子供が障がいを持っている可能性を示される。

康二は過去のとある経験から出産に反対するが、その事を知らない麻衣はその反対を押し切り出産を決意し…。

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加藤拓也の書く言葉はとても強い。強すぎると言ってもいいほど容赦がない。決して言葉数が多いわけではないし、気持ちを説明するような台詞もない、けれども会話の底に流れる感情の波に否応なしに引き込まれて、寄せて返すさざ波が物語が進むにつれて大きなうねりになって押し寄せてくる。緊張感の中で息を詰めて舞台をみつめていた。序盤で幼い時の康二が血まみれで出てきた時に、自閉症の弟を康二が殺したのだとそう受け取ってそのあとの展開を観ていたので(弟のために気苦労と喧嘩が絶えない両親のため、両親の関心を弟よりも自分に向けさせるためだと思った)、弟の死は道路に飛び出したところを車に轢かれた事故であり、その時に手を繋いでいなかった自分を康二はずっと責めており、弟の死に対する深い哀しみと後悔が康二という人間を形作ってきたことが終盤に明かされて、私はなんと斜に構えて捻くれた見方をしていたのかと思った。弟の死だけではなく、麻衣が自分に隠れて第三者精子の提供を依頼していたことを偶然知った康二は、麻衣の妊娠を素直に喜べず、麻衣に問い質すこともできず、このあたりの葛藤を橋本淳がとても巧みに表現している。黒木華演じる麻衣は子供をもつことに異常なほど執着した女性で、提供された精子は結局捨てたので子供の父親は間違いなく康二なのだけど、出生前診断の結果に動揺しつつも生むという自分の決断を通して離婚を選択する。そのくせ出産後に(生まれた子供に障がいはなかった)やはり子供には父親が必要とか言って康二に復縁を迫るのは随分と都合のいい話だと思う。この作品では、他者の感情に対してまったく無神経であり、自分が良かれと思ってしたこと言ったことでも相手にとっては非常に不快であるかもしれないという想像が働かない人たちの発言を通して、コミュニケーションの不在、共存することの難しさを描き、それでも家族であるとはどういうことなのかを観客に問うものになっていたと思う。生まれないことを望んだ自分は父親になれないと子供の写真を見ることを拒否する康二に、麻衣だけでなく康二の両親も子供と3人でやり直すことを勧めてきて、泣きながら「うん」と康二が言ったところで幕になれば、関係の修復が為されるかもしれない兆しをみせての終わりとなっただろうけれど、ここで舞台の両袖から真っ赤は血が壁と窓を伝ってどっと流れ落ちた時、康二の苦しみはこれからもずっと続いていくのであり、血縁という縛りから逃れられない業を見せつけられた気がした。

午前十時の映画祭『イングリッシュ・ペイシェント』

3/30 TOHOシネマズ日本橋で『イングリッシュ・ペイシェント』(1997年)

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第二次世界大戦を背景に、ハンガリー人の伯爵アルマシーとイギリス人の人妻キャサリンの不倫を描いた大メロドラマなのだけど、アンソニー・ミンゲラ監督は恋に落ちていく2人の心理をとても丁寧に追っており、美しい映像と音楽の効果も相まって、非常に格調高い愛の物語になっている。また戦争の悲惨が登場人物たちの人生を翻弄する様も静かな怒りを持って描かれる。あらためて観て感じたのは、やたら自意識が高くてひねくれた男、所有されるのも所有するのもごめんだとかほざいていた男が、相手を失うかもと思ったとたんに「君はぼくのものだ」「誰にも渡さない」とか言い出す身勝手さで、レイフ・ファインズがきれいな顔で見つめてくるから何となくほだされてしまうけれど、クリスティン・スコット・トーマス演じる人妻キャサリンが自立した大人の女性であるのに比べると、アルマシーはとても幼い。そんな風に思いながら観ていたのだけど、瀕死のキャサリンの元になんとしても戻ろうとする、必ず戻ると誓った約束を守ろうとするその必死さにはやはり胸を打たれて、息絶えたキャサリンに寄り添う姿には涙がこみ上げてしまった。官能的で甘美で哀しくて切ない映画。ふたつ隣の席に座っていた20代前半と思われる男性が人目も憚らず号泣していて、なんというかまっすぐでいいなあと思った。

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『ナイトメア・アリー』

3/25  TOHOシネマズ日比谷で『ナイトメア・アリー』

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ギレルモ・デル・トロ監督の新作。はっきりと二部に分かれた展開になっており、怪しげな見世物を売りにしているカーニバル一座に流れ着いたスタン(ブラッドリー・クーパー)がそこで働くうちに読心術を身につけ、電流ショーをやっているモリールーニー・マーラ)と恋をして2人で一座を出ていくことにするまでが前半。2年後、読心術ショーで人気を博していた2人の前に精神科医リリス・リッター博士(ケイト・ブランシェット)が現れる。トリックを見破られそうになったスタンはリリスと共謀し、リリスの顧客である富裕層に霊媒のふりをして近づいて、金目当ての騙しを始めるが…というのが後半。見世物小屋の作り込まれたセットやショーの世界の裏側を興味深く描いた前半はワクワクしてとても面白かったのだけど、後半はテンポがないというか退屈な展開で時々眠気が差してしまった。ケイト・ブランシェットのゴージャスな雰囲気も最初から最後まで実はスタンを手玉に取っていたのだと明かされる悪女振りも見事だけれども、少々誇張され過ぎではという感じもした。ブラッドリー・クーパーは冒頭で匂わされる闇を抱えた男という部分よりも、悪党になり切れずどこかしら抜けている男の小物感がよく出ていていてよかったと思う。予告動画で何度も「これは人間か、獣か」と繰り返されるけれど、なるほどこれは人間が持つ獣の部分、隠れた獣の顔を描く映画なのだと物語を追ううちに解ってくる。獣人として見世物にされた男の顛末を前半に丁寧に見せておいての後半の因果応報の結末。わりと読める展開ではあったけれども、これできれいにひとつの輪が繋がった感じで、最後はこうなるしかないよなあと気分がざわざわしつつも納得した。

東京成人演劇部vol.2『命、ギガ長スW(ダブル)』

3/9『命、ギガ長スW』ギガ組(宮藤官九郎×安藤玉恵

3/23『命、ギガ長スW』長ス組(三宅弘城×ともさかりえ

ザ・スズナリ 作・演出:松尾スズキ

2019年の松尾スズキ安藤玉恵の初演は、当日券に並んでチケット買って観て、もう本当に面白かったので、今回の公演もとても楽しみにしていた。まずギガ組。作・演出の松尾スズキと共にある意味完成形を初演で演じている安藤玉恵が、やはり一度やっている余裕を感じさせて、全体に物語をリードして進めている感があった。こちらも初演を思い出してなぞる見方になっていたところがあり、ああこうだったなとか、ここは松尾さんのやった通りだなとか。クドカン安藤玉恵も笑いの間が絶妙なので安心して笑えるし、この親子のどうしようもなく2人でそれでも生きている感じがウェットになり過ぎないのが良かったと思う。役者としてのクドカンを舞台で観るのはたぶん2003年の「ニンゲン御破産」以来だったのに、ついつい松尾スズキと比べて観てしまったのは反省。戯曲の面白さは言わずもがなで、すごく良い台詞がたくさんあったことにあらためて気が付いた。そして長ス組。ギガ組よりも親子の情愛が強く出ているというか、この母にはこの息子が、この息子にはこの母が、どうしても必要なのだと感じさせる。三宅弘城ともさかりえは、相性のよさが舞台からひしひしと伝わってきて、相手を信じて思い切りやろうという気合に満ちていて、正直ギガ組よりも面白かった。三宅弘城はオサムと教授の演じ分けが本当に上手で、特に教授役、そのあご髭といいシークレットブーツといいビジュアルの造形も含めてサイコーだった。ともさかりえも予想を超えるコメディエンヌぶりで、今まで私が観た出演舞台の中では一番良かったと思う。この作品をまた別のいろんな俳優の組み合わせで観てみたいと思い、東京成人演劇部はこの作品だけ上演する団体でもいいんじゃないかとか思ったりして。